2013年6月11日火曜日

成果を上げるときのインプット(読書)の価値について

本を読むという行為の成果を求めない、というのが本ブログの主旨ではあるのだけれど事業戦略を考えるにあたっては、極めて有用であることを実感しているので簡単にメモをまとめておく。

大学時代に、ショーペンハウエルの下記の本を読んだことがある。
読書について/ショーペンハウエル



この本の中では、ショーペンハウエルは
読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。
という。
もともとただ自分のいだく基本的思想にのみ真理と生命が宿る。我々が真の意味で充分に理解するのも自分の思想だけだからである。書物から読みとった他人の思想は、他人の食べ残し、他人の脱ぎ捨てた古着にすぎない。(P8)
しかし、本当にそうだろうか。そう思う理由は二つある。

一つは、そもそも、自分というものの成り立ちを考えるにつけ、「 もともとただ自分のいだく基本的思想」なるものが存在するのかどうかを疑問に思うことだ。私たちは人類の叡智のさきっちょに生きている。私たちが書物、インターネット、学校、その他の場所で学ぶ知識は過去の人たちが作り出した思索の先に成り立っている。たとえあなたがノートに1から何らかの理論を構築したとしても、それを考えるための言語は他人の思索の先に生み出され、洗練されて来たものだ。であれば、そのそも私たちの思索は誰かの影響を受けざるを得ない。加えて私の価値観・人格は多分に幼少期を中心とした育成のあり方にも大きく影響を受けている。また、考えの生成の過程は他者との対話による方が精度が高まるように思う。その他者が本であったり、記事であったり、人間であったりするのだと思う。

二つ目は、クリエイティブなアイディアの源泉は過去に蓄積されたパターンの組み合わせから発生するのではないか、ということだ。これについてはすでに多くの書籍が取り上げているのでここで説明することはしない。もしこれが正しいとすれば、クリエイティブであろうとすればするほど、より多くの当該領域におけるパターンを脳に蓄積する必要がある。その方法論として書籍は極めて優れている。

ただし、ショーペンハウエルの言うような思索の価値は絶対にあって、それは何かというと情報の「脳への定着」という価値だと思う。ただ漫然と読んでいるだけだと、しばらくすると内容さえ忘れてしまう。だけどその本を題材として一定の思索をしていれば、それは脳に定着し、必要な時に知識として引き出したり、クリエイティブなアイディアのネタや導線になったりする。だからブログを書く価値がある。

読書とはショーペンハウエルが言うような「自分の頭ではなく他人の頭で考えることである」というような行為ではなく、むしろ「他者と対話をすること」に似ている。戦略思想家に多く研究されたナポレオンはいつも小脇に軍事の歴史書を抱えて過去の戦闘を研究していたという。きっと彼は本を読む過程で過去の戦闘の指揮官たちと対話していたはずだ。「なぜその戦略をとった?」と。
情報の限界は思考の限界
思考の限界は行動の限界
行動の限界は成果の限界
これは以前に、会社の先輩に教えてもらった言葉だが、この言葉のほうが私の実態には近いのではないかと思える。情報の限界は成果の限界。だから私はたくさん本を読むし、その先にある成果の大きさを信じている。ただ、気をつけなければならないのは真ん中に「行動」という言葉が入っていること。思考の後の「行動」という実験の場がなければ成果につなげることはできない。しかし、その大前提として情報量の多さがあることは確かなのだと考えている。

読書について/ショーペンハウエル

0 件のコメント:

コメントを投稿